命は身体の中に含まれています。人間は身体と精神で出来ていて、身体も精神もどちらも分離することは出来ません。
身体と精神が分離できないのは、分離すると人間ではなくなってしまうからです。人間でなくなることは、命が失くなることです。命は、身体と精神が分離できない状態で存在しており、命は、身体と精神が一体化しているところにあります。
そうすると、身体と精神が分離するところを知ることが出来れば、命の長さを知ることが出来るはずです。そういう考えのもとで命は計算できるとして出来た学問が、算命学です。

生命の誕生は、いつか死ぬことがあることの予告です。生まれてこなくては死ぬことはなく、死は生によって、生じるのです。
そうすると、生まれることが死に最も深い関係にある…というよりは、誕生は死と直結しています。つまり、死に対する考えの根本は、誕生にあると言いきっても過言ではありません。

死の形は、大きく分けて、二つあります。一つは自分の意志によるものと、もう一つは自分の意志ではないものです。
前者は自殺であり、後者は自殺以外の死がすべて含まれます。後者をさらに分けると、病気による死と事故による死となります。自殺による死と自殺以外の死、そして病気の死と事故の死と、死の形がどんなものであれ、死は死です。そして、死の形がどんなものであれ、死はすべて誕生があったが故に起きるのです。
一般的には、死の事実が起きたときに、死に直接つながる原因に重点をおいて考えます。自殺をすればしたで、お金のことか、異性のことか、あるいは仕事上のことかといろいろと詮索をするし、病気で死ねば、酒を飲み過ぎたとか、日常生活が不摂生だったとか、いろいろの面で無理をしすぎたとか、あるいは年令的に死がくるのは当然だとかと、病気の原因を取りざたします。
さらにそのことよりも、死に至った直接の原因を知ろうとします。たとえば、病死ならば脳梗塞、心筋梗塞、あるいは癌などのように死に直接つながった原因を知ろうとするのです。事故死にしても、同じようなもので、死につながる原因をさぐろうとします。

このような考え方をするのが、一般的な考えです。
実際のところ、それ以上の考えをしようとしてもどうにもなりません。しかし古代中国人は、死について、原因探究は探究として当然のこととし、それ以上の考え方を進めて行ったのです。
それ以上の考え方、それは、死がどうして起きるのかではなく、死が何故あるのかです。死がどうして起きるのかまでは、いままで述べてきた死の原因の探究ですが、死が何故あるのかは、死に直接つながった原因のもっと奥にある原因を知ろうとするものです。
このように考えを進めてくると、死は、死がおきるための出発点、つまり、誕生にあるということになります。つまり、死を知ることは、死を生ずる原因である誕生を知ることです。誕生日を研究することによって、死ぬ時期を知ることが出来ます。死を知ることは、死に至る原因、どんな死に方なのかより、何時死ぬかの方が大切。何時死ぬかが分かれば、あとはどんな死に方をしようと、死ぬのは死ぬ…でしかないのです。
そこで生まれて来たときのことを考えてみます。生まれて来たときのことは、大きく分けて、二つあります。一つは生年月日であり、もう一つは生まれたときの環境です。
生年月日は暦と関係があります。暦を作り上げるときに、天気、地気を繰り込んだことは「十干十二支」でご説明した通り。つまり、生年月日による「気」を徹底的に研究することで、死を知ることができるのです。死を知ることができれば、寿命の長さを知ることが出来る。寿命の長さを知ることができることは、結局命の計算ができることになります。このような考えがもとになって、命の計算、算命学ができたのです。

この記事の監修者

朱学院校長佐藤直樹

東京・上野に生まれる
早稲田大学高等学院、早稲田大学商学部卒業
10代より算命学を始め、奥義を習得、さらなる算命学の発展を目指す。